古屋兎丸さんは1968年1月25日生まれ。多摩美術大学美術大学絵画科(油画専攻)卒。1990年から明星学園高等学校の美術教師として勤務しながら持ち込みを始め、1994年「ガロ」誌上「Palepoli」でデビュー。以後、様々なコミック誌や雑誌に連載を開始し、「ショートカッツ」「Garden」「Marieの奏でる音楽」等を発表。2002年には「π」の週刊誌連載を機に教職を辞す。2006年東京グランギニョルの舞台を原案とする「ライチ☆光クラブ」を発表。以後、息の長いブームとなり 2012年には舞台化された。以後も「彼女を守る51の方法」「インノサン少年十字軍」「幻覚ピカソ」「人間失格」「帝一の國」を発表。現在はモーニングツーにて「アマネ†ギムナジウム」連載中。
兎丸さんの Twitter: https://twitter.com/usamarus2001
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関連ページ : 兎丸さんを知るキーワード、古屋兎丸さんの1日
現在の活動
最新の活動については以下を参照してください。
- 古屋兎丸さんのTwitterアカウント「@usamarus2001」
- 古屋兎丸ブログ「ウサギ☆ひとりクラブ」(http://usamarus2001.blog100.fc2.com)
- 当Webサイトのトップページ
- 古屋兎丸を知るキーワード (旧サイト)
古屋兎丸年譜
2008/06/02 永江朗著「平らな時代」(2003)のインタビューを下に、兎丸さんのブログやスピリッツ連載作家ダイアリー、インタビュー記事を合成して作成しました。特に断りのない限り引用は『平らな時代』から。また写真はすべて兎丸さんのブログからお借りしたものです。写真をクリックすると、元の記事にジャンプします。
2009/05/02 『Flowers』の 30,000字インタビューを受けて若干、変更と追記。
年 | 年齢 | 事項 |
1968年 | 0歳 | 1月25日生まれ、本名 古屋剛。八王子、陣場山のふもとの恩方出身。一人っ子。 「家の裏には川が流れていて、その向こうには森があって山がありました」。「ごっこ」遊び(段ボール製のマジンガーZや、自転車を仮面ライダーのバイクに見立てて)に興じていた。 「家の裏にある川。 魚釣りしたりいかだ作ったりして遊んだ川。」 |
1974年 | 6歳 | 小学校入学。
「(父の職場は)秋葉原にありましたから、朝、高尾発6時ごろの電車に乗って、夜は終電近くで帰ってきます。高尾は終点ですから、網棚に漫画雑誌がたくさん置いてある。父親はそれを持って帰りました。これが僕にとって大きかったと思う。」 当時好きだった漫画は、とり・みきの作品、「まことちゃん」「がきデカ」「すすめ!! パイレーツ」などのギャグ漫画。ちなみに「マカロニほうれん荘」はお兄さんの読む漫画だと思ったらしい。 描く方は「まことちゃん」のようなギャグ漫画か、手塚治虫のようなストーリー漫画。母親の勧めで手塚治虫による(?)漫画の通信教育を受講する。 この頃の友人に政治学者の宇野重規さんがいる。一緒に漫画を描いて遊んでいたそうで、宇野重規著「トクヴィル 平等と不平等の理論家」 (カバー絵:兎丸さん)の著者解説に詳しい。 |
1980年 | 12歳 | 中学校入学。
ギャグ漫画からイラストに興味が移る。好きな漫画は「ストップ!! ひばりくん」、「超人ロック」。「マンガ少年」「マンガ奇想天外」「SFマンガ大全集」を購入し、吾妻ひでお、諸星大二郎、竹宮惠子、山田ミネコらを知る。 アニメやゲームにはさほどの興味はなかった。上で述べた過剰な漫画雑誌の読書環境が他ジャンルへの興味を殺いだのではないか、と自己分析している。 |
1981年 | 13歳 | 「少年キング」「バラエティ」「ロードショー」の似顔絵投稿コーナーの常連になる。 「これは中一の頃だ。少年キングの似顔絵コーナー」 「13歳の時の絵ですね。少年キングの似顔絵コーナーです」 「中学生の頃の漫画も出てきた。」 |
1982年 | 14歳 | 父親の影響で、YMOやJAPAN、デヴィッド・ボウイ、デュラン・デュランなどに興味を持つ。 |
1983年 | 15歳 | 吉祥寺の明星学園入学。 |
1984年 | 16歳 | 丸尾末広を知る。インディーズの音楽を聞き、ポジパンの服装になる。 漫画からは離れていき、美術系、演劇系(飴屋法水の「東京グランギニョル」など)に興味を持つ。好きな女の先輩の影響で美術予備校 武蔵野美術学院に入学。真剣に絵の勉強を始める。 「高校生の頃の自画像が出てきた」 |
1985年 | 17歳 | 芸大を目指す。両親との約束で、多摩美、武蔵美両方に合格できるなら、可能性があるということで、浪人して芸大を目指す事の了承を得る。果たして両大学に合格するが、両親が喜んでしまって親戚中に触れ回り、入学金も申し込んだため、多摩美に行くことを決める。
予備校時代の友人には現代美術作家の原隆史、アーティスト兼漫画家の横山雄一などがいる。 |
1986年 | 18歳 | 多摩美術大学絵画科(油画専攻)入学。 漫画研究会には入らず(「おたく絵ばっかり」)、演劇部「ネリネリ団」に入部。期待に反してつかこうへい、如月小春などの演目。半年ほど手伝い、2、3回舞台にも立つ。「ここから自分が作り手の側に回り、美術という大きな壁にぶち当たっていくわけです。この「 ぶち当たる」時期は18歳から25歳までの7年間にも及ぶものでした」(『Flowers』より) |
1987年 | 19歳 | 身体表現に興味を持つ。勅使河原三郎さんのKARASに入ったり、山海塾の蝉丸さんの合宿に参加する。秋からはフクハラ・テツロウさんのところに通う。 |
1988年 | 20歳 | 抽象画コースを選択。李禹煥、東野芳明、吉増剛造らに教わりながら、もの派、アルテ・ポーヴェラの考え方を魅力的に思い、キーファーやボイスも好きになる。 |
1989年 | 21歳 | 大学卒業。 就職先としてCG関係の会社に内定していたが、明星学園の先生との出会いにより、教鞭を執ることになる。三鷹の近辺に平屋の一軒家を借りて、彼女と住む。 |
1990年 | 22歳 | 明星学園にて美術講師を努める。週2回程度の授業を行う(2001年まで)。教え子には中村獅童、ケンタロウ、小栗旬、土屋アンナなど。 「普通にデザインを教えたり、デッサンを教えたり。で、マンガの授業っていうのを僕が作って教えたりもしています」(「マンガの道」より)教職の傍ら作品をつくったり、舞台に出たりしていた。 「当時、年1、2回、個展を開く生活を4、5年続けたわけですが、個展が終わった後のむなしさは大きかった」(美術手帖2006年2月号)またバイク整備、革細工に凝る。バイクは望月峯太郎の影響が大きく、カオル君のYAMAHA SR(改)に始まり、「バイクメ~ン」のBSA、トライアンフなど。 |
1993年 | 25歳 | 教科書や参考書のイラストの仕事を請ける。その過程で漫画を描くことを思い立ち、ガロに投稿を始める。が、8ヶ月ほどまったく掲載されない。太田出版版の「Palepoli」には、この頃に執筆された(?)「ある愛の証」が、「Garden」には「笑顔でさようなら」がそれぞれ収録されている。 |
1994年 | 26歳 | それまでの本名を改めペンネーム「古屋兎丸」で4コマ漫画「Palepoli」を投稿。ガロ1994年9月号に掲載される。以後、勝手に描いては投稿、掲載を繰り返し、連載化する。 |
1995年 | 27歳 | 「演劇ぶっく」にて「USAMARU THEATER」連載開始。
COMIC CUE vol.2 (1996) カバー・バージョン特集に、「Death Comi」を掲載。 「ページ単価でちゃんとした原稿料をもらったのって、「COMIC CUE」がはじめてで、ものすごく嬉しかった記憶があります。1ページにつき1万6千円でした」(『Flowers』より) |
1996年 | 28歳 | 5月「Palepoli」連載終了、6月に単行本「Palepoli」発売。各界で絶賛される。
10月(?) ヤングサンデーにて「ショートカッツ」連載開始。「小学館内ガロ支部」島田一志氏の声がかりによる。当初はレオナルド・ダ・ヴィンチの話にする予定だったが、編集会議で通らず、女子高生漫画の話になった。 12月 COMIC CUE vol.3 ポルノ特集に「天使のフェラチオ」掲載。 |
1997年 | 29歳 | 1月 ガロにて「エミちゃん」連載開始。 「「ショートカッツ」でも依然としてコマ割りの自信さえなかったんです。だから同時期に手掛けた「エミちゃん」にはそのフラストレーションや私生活のことも含め、すべてが吐き出されている。」(美術手帖 2006年2月号)7月「エミちゃん」連載終了。 11月 ダ・ヴィンチにて「鈍器降臨」連載開始 |
1998年 | 30歳 | 3月 「ショートカッツ」(1)発売。ブックデザインの大竹俊介は、明星学園での教え子。 4月 STUDIO VOICEにて「プラスチックガール」連載開始。担当編集者は、明星学園での教え子10月 COMIC CUE vol.5 子供特集号に「月の書」掲載。 「「エミちゃん」で解放されたあと、(中略)「エミちゃん」とは逆に、初めてストーリーも構成も考え抜いて描いた作品です」(『Flowers』より) |
1999年 | 31歳 | 3月(?) 「ショートカッツ」連載終了 「「ショートカッツ」の上下巻があるんですが、下巻の方がちょっとテンションが落ちちゃって、ちょっと気持ちが投げやりになっちゃったので、それはちょっと後悔しています」(ティム・リーマン著「マンガマスター」)5月 「ショートカッツ」(2)発売 12月 「プラスチックガール」連載終了。終了のきっかけは引越しらしい。 |
2000年 | 32歳 | 1月 月刊コミックバーズにて「Marieの奏でる音楽」連載開始。ただし、連載前の段階でシナリオ執筆、ネームを描き終えていた。構想は1ヶ月を費やすが、シナリオ、ネームはわずか1週間そこらで終了したらしい。 「”最初の段階でプロットをラストまで作ってから、作画に入る” という今の僕のやり方が始まったきっかけになった作品でもあります」(『Flowers』より)4月「Garden」発売 9月「プラスティックガール」、「Wsamarus 2001」発売 |
2001年 | 33歳 | 1月「Marieの奏でる音楽(上)」発売 10月「Marieの奏でる音楽」連載終了、12月「Marieの奏でる音楽(下)」発売園子温監督に自作「自殺サークル」の漫画化を打診される。制作期間1ヶ月。170ページのネームを1週間で仕上げる。このとき初めてアシスタント(コザキユースケ、えりちんら)を使用する。 |
2002年 | 34歳 | 1月ごろ、ビッグコミックスピリッツ増刊に「π -パイ- 」、数ヶ月後「だいすきっ」掲載。編集部八巻和弘氏の勧めもあり週刊連載が決定する。 春、週刊誌の連載に備え、教員を辞める。 3月「自殺サークル」発売。 6月 引越し。予言者の「あなたは河童です。6月に池がある××公園の近くのマンションに住むでしょう」に従う(「鈍器降臨」)。 9月 ビッグコミックスピリッツにて「π(パイ)」連載開始。これにあわせてアシスタントを本格的に使用する。連載は毎週18ページという分量で、一度も休むことなく、2年半続いた。 |
2003年 | 35歳 | 1月 スマートクーペ購入。「π」の律子先生の車である。 「モデルは僕の赤銀スマートクーペです。」 3月 「π(パイ)」(1) 発売 7月 「π(パイ)」(2) 発売 11月 「π(パイ)」(3) 発売月~水曜日は作画、木~日曜日はネーム、イレギュラーの仕事というパターンが確立する。 |
2004年 | 36歳 | 3月 「π(パイ)」(4)、「鈍器降臨」発売 7月 「π(パイ)」(5) 発売 9月 トライアンフ・ファーストボンネビル(1959)を浅場啓二氏より購入 10月 mixiに加入。飴屋法水コミュで「グランギニョルのビデオを探しています」トピックを立てる。 11月 「π(パイ)」(6) 発売「π」は5週間~10週間先行して描かれていたそうで、間を埋めるために単発の短編作品を描いては、「IKKI」等で掲載していた。「π」と趣向の異なるこれらの作品はその後「ハピネス」にまとめられる。 |
2005年 | 37歳 | 2月 「π(パイ)」(7) 発売 この頃「π」の3ヵ月後、連載終了を告げられ、即、太田出版に「ライチ☆光クラブ」の企画を持ち込む。 「π」の執筆完了。その3週間後に「ライチ☆光クラブ」のネーム完了 5月 「π(パイ)」(8) 発売 5月 エロティクス・エフにて「ライチ☆光クラブ」連載開始。 5月(?) 「π(パイ)」連載終了 この頃から「少年少女漂流記」の企画開始。きっかけは映画「陽だまりの誌」後の座談会と思われる。 9月 「π(パイ)」(8) 発売 この頃に「ライチ☆光クラブ」の原稿完了。「少年少女漂流記」執筆開始。 12月 「マニエリズム」発売 |
2006年 | 38歳 | 2月小説すばるにて「少年少女漂流記」連載開始。実際にはこの段階で執筆完了している。
3月 「ハピネス」発売 5月 「ライチ☆光クラブ」連載終了、コミックバンチにて「彼女を守る51の方法」連載開始 |
2007年 | 39歳 | 1月 NHK-BS マンガノゲンバに出演 1月「少年少女漂流記」連載終了 2月「少年少女漂流記」発売 3月 「彼女を守る51の方法」(3)発売 4月 ブログ「うさぎ☆ひとりクラブ」開始 4月 讀賣新聞 POP STYLE内で一コマ時評漫画の連載開始 5月 「インノサン少年十字軍」のシナリオ完了。ネームも120ページ描いている。 6月 「彼女を守る51の方法」(4)発売 8月 「彼女を守る51の方法」連載終了 9月 「彼女を守る51の方法」(5)発売11月「インノサン少年十字軍」連載開始。いきなりの2話掲載。 |
2008年 | 40歳 | 1月 讀賣新聞の連載が4コマ漫画「POPくん」にリニューアル 3月「鈍器降臨」連載終了7月 画集「Flowers」発売 9月 月刊ジャンプスクエアにて「幻覚ピカソ」連載開始 10月 「インノサン少年十字軍」(1)発売 11月 マンガ・エロティクス・エフ vol.54 古屋兎丸大特集号発売 11月 漫画兄弟名義で「納豆侍豆太郎でござる」発売 12月 お父様が亡くなられる |
2009年 | 41歳 | 2月 『幻覚ピカソ』(1)発売 2月 週刊コミックバンチにて「人間失格」連載開始 4月 結婚 6月 『人間失格』(1) 発売 9月 『幻覚ピカソ』(2)発売 10月 twitter開始 12月 ポーちゃん永眠 |
2010年 | 42歳 | 2月 『インノサン少年十字軍』(2)発売 2月 『人間失格』(2) 発売 3月 ファン・イベント「ライチ光クラブナイト」をスナック・ニッポニアにて開催 3月 文庫版『少年少女漂流記』発売 4月 長男誕生 5月 「帝一の國」連載開始 6月 『幻覚ピカソ』(3)発売 6月 漫画兄妹名義で『ずっといっしょ』発売 8月 週刊コミックバンチ休刊 10月 急性扁桃炎により入院 |
2011年 | 43歳 | 1月 月刊コミック@バンチ創刊 2月 港区から三鷹に引越し 3月 『帝一の國』(1) 発売 4月 WEB誌「ぽこぽこ」にて「ぼくらの☆ひかりクラブ」連載開始 5月 トロントで行われた「2011 Toronto Comic Arts Festival」に Guest of Honourとして招待 6月 『人間失格』(3) 発売 6月 「インノサン少年十字軍」脱稿 11月 「マンガ・エロティクス・エフ」vol.72 古屋兎丸特集号発売 11月 『ぼくらの☆ひかりクラブ』(上)発売 12月 『帝一の國』(2) 発売 12月 平成23年度[第15回]文化庁メディア芸術祭にて『人間失格』が審査委員会推薦作品として選出 12月 ライブ「廃墟の音楽会」のオープニングにて20年ぶりに舞踏を披露 |
2012年 | 44歳 | 2月 『インノサン少年十字軍(下)』発売 4月 『ぼくらの☆ひかりクラブ』(下)発売 7月 『帝一の國』(3)発売 8月 初のコンビニ版単行本『πスペシャル πかもしれない編』発売 11月 『帝一の國』(4)発売 11月 「マンガ・エロティクス・エフ」vol.78 「ライチ☆光クラブ」特集号発売 12月 舞台「ライチ☆光クラブ」上演 12月 個展開催 |
2013年 | 45歳 | 1月 お母様が亡くなられる 3月 『帝一の國』(5)発売 3月 漫画兄弟『れいぞうこのなかの なっとうざむらい』発売 4月 漫画兄弟サイン会 ヴィレッジヴァンガード池袋サンシャインアルタ店にて 4月 『ライチ☆光クラブ』実写映画化発表 4月 朝5km のジョギング開始 5月 新作のネーム入り 7月 『帝一の國』(6)発売 7月 舞台『ライチ☆光クラブ』再演決定 10月 漫画兄弟『れいぞうこのなかの なっとうざむらい いかりのダブルなっとうりゅう』発売 10月 『女子高生に殺されたい』連載開始 10月 ゴーゴーバンチ原画展「Love @ go go」神楽坂フラスコにて 11月 『帝一の國』(7)発売 11月 漫画兄弟サイン会 ジャパンフードフェスタ2013 丸の内にて 11月 サイン会 ジャンプショップ東京ドームシティ店にて 12月 舞台『ライチ☆光クラブ(再演)』上演 12月 第2子誕生 |
2014年 | 46歳 | 4月 『帝一の國』(8)発売 4月 學蘭歌劇『帝一の國』上演 8月 『帝一の國』(9)発売 10月 デビュー20周年記念号の「ゴーゴーバンチ」Vol.5 発売 11月 『古屋兎丸先生の似顔絵教室』 開催 11月 三鷹から港区に引っ越し 6回目 12月 【小説】 女子オプ!−自動車保険調査員・ミキ−のイラスト連載開始 12月 『帝一の國』(10)発売 |
2015年 | 47歳 |
古屋兎丸紹介文
「COMIC CUE VOL.2」(1996)の著者紹介より … 恐らく初の著者紹介
「ガロ」で連載中の「Palepoli」でデビューした古屋さんは、都内某高校の現役の美術講師だ。けっこー、女子高生にモテるというウワサでくやしいぞ。
英語版「ショートカッツ」(2002)の著者紹介より(一部加筆)
古屋兎丸(ふるや うさまる) 1968年1月25日生まれ。漫画への道は普通と異なり、多摩美術大学美術大学絵画科(油画専攻)にて彫刻と抽象立体を学び、後に舞踏活動などをも行う。卒業後は、1990年から高校の美術教師として勤務。漫画家デビューは1994年、革新的な4コマギャグ漫画「Palepoli」を、伝説の前衛コミック誌「ガロ」に連載してから。以来、日本でメジャーなコミック誌に作品を発表し続けている。本「ショートカッツ」は週刊ヤング・サンデーに連載された。英語圏では、「PULP: The Manga Magazine and Secret Comics Japan」で、古屋兎丸の作品を読める。アメリカの読者への彼からのメッセージ「アメリカ人の80%は、人間中心の、進化論を否定する熱心なキリスト教徒と聞きましたが、これって私の誤解でしょうか? 多分、そうなのでしょう。アメリカ人と日本人の間には、こんな大きな誤解がいくつもあると、私は思います。漫画がその隔たりを超えられるといいのですが。」
English
About Usamaru-san
This page introduces Usamaru-san’s personal history and information. For general activities, please refer his blog Usagi * Hitori Club (http://usamarus2001.blog100.fc2.com) or top page of this Web site.
Some topics were gathered in another specific page.
Usamaru Furuya’s history
2 June 2008
Below articles were based on interview from Tairana Jidai 2003 by Akira Nagae, plus Usamaru-san’s blog, diary in Big Comic Spirits Web site, other interviews etc. Without any notice, words were from Tairana Jidai. All photos were from Usamaru-san’s blog. Clicking the links or phtos will jump to the original articles.
2 May 2009
Added and modified some articles by 30,000 words interview of Flowers.
Introduction of Usamaru Furuya
From “About the Artist” of Short Cuts English edition
Usamaru Furuya was born January 25, 1968. His path to manga was unusual. He studied sculpture and abstract three-dimensional figures in art school, and afterwards even became involved with butoh dance. For a while he worked as a high school art teacher. He made his debut as a manga artist with the ground-breaking four-panel “gag” strip Palepoli, which was serialized in the legendary avant-garde comics magazine Garoin 1994. Since then he has gone on to publish in major weekly magazines in Japan, such as Young Sunday (where Short Cuts was first serialized). In English, his work has appeared in PULP: The Manga Magazine and Secret Comics Japan. A message to American readers from Usamaru Furuya: “I’ve heard that 80% of America is made up of anthropocentric and passionate Christians who deny the theory of evolution. Could this be a misconception on my part? I think it probably is. I think there are a great many misconceptions between Americans and Japanese. If only we could overcome these through manga.”